天野芳太郎 天野芳太郎は1898年7月2日、秋田県南秋田郡脇本村(現・男鹿市脇本)に生まれた。青少年時代に作家・押川春浪の小説に共鳴した天野は、当時の国民の多くの目が旧満洲(中国東北部)や朝鮮半島に向けられていたなかで、まだあまり関心の持たれていなかった中南米に雄飛することを夢見る。
 やがてその夢が実現し、中南米一の実業家と称されるようになったが、生涯を通じて民族や文化の固有性にこだわり続けた。終の栖となったペルーでは私財を投じて博物館を設立し、チャンカイなど古代遺跡から出土した遺物の採集と研究に心血を注ぐこととなる。

実業家への道
 幼少年期の天野は決して恵まれた環境にはなかった。赤貧洗うがごとき時期もあったが、どんな時にも知識欲だけは失わなかった。父と過ごした北海道時代には、その将来の啓示となるような大きな体験をしている。函館市立待岬近くの崖で、偶然先史時代の石斧を拾ったのだ。黒曜石のその石斧が約4000年前のものだとわかった時の感動は計り知れなかったと、彼は晩年に到るまでその石斧を持ち歩き、今も天野博物館に保管されている。
 1913年には秋田県立工業学校(現・県立秋田工業高校)機械科に進学。工学関係の本はもとより文学、漢詩、歴史書などを広く深く読んだ。同校を卒業後、父と神奈川で暮らすようになった天野は、一時は横浜の浅野造船所に技師として務めながら、早くも独立独歩の気に目覚めた。出資者を募って神奈川鋳物工場を設立したのち、1921年には天野商会を発足、旺盛な事業欲を見せる。

いよいよ海外雄飛へ
 横浜の市電に乗っているときに関東大震災に遭遇した天野は、被災者が口に入るものなら何にでも群がるのを見て、「食べ物屋」が一番だと、父が花月園近くで経営していた子育饅頭の支店を横浜馬車道に開店。この狙いが見事に当たり、このときに稼いだ資金をもとに、ついに海外雄飛の夢を実現させる。
 1928年4月27日、天野は大阪商船の博多丸に乗り込み横浜から香港、シンガポール、ケープタウンを経て南米ウルグアイを目指した。南米への夢を語りながら、現実主義者の天野は資金の大半を雑貨品の仕入れに充て、南アのダーバンではおよそ3倍の値でさばいたという。7月10日、モンテビデオに上陸を果たすが、小学校に入学しスペイン語を学習していよいよ生活を始めようとした矢先に父・吉治の訃報が届き、直ちに帰国の途に着いた。
 一時帰国した天野はその年の12月31日、再び横浜港から今度は太平洋を横断し、ハワイ、ロサンゼルス、メキシコを経てパナマに至った。最初の店はボロボロの古家で、自ら手を加えて改造するなどの苦労を重ねながら、カサ・ハポネサ(天野商会)を立ち上げる。

一国一業主義
チリ、コンセプションの農場にて
1935年 : チリ、コンセプションの農場にて
 寝食を忘れた努力の結果、天野商会は成功をおさめるが、天野の特質は一つの事業の成功で満足しないところにあった。パナマを拠点に中南米各地で事業を興すことを計画し、チリに農場、コスタリカに漁業会社、エクアドルに製薬会社などを設立した。これを本人は「一国一業主義」と称している。ヴェネチアやフィレンツェの冒険商人のように、天野は南米各国に「天野帝国」の版図を拡張しようとした。少なくとも、同時代の日本人でこれほど縦横無尽に活動し得た人物は、官民を通じて例がないだろう。
 少年時代にシュリーマンのトロイ遺跡発見の物語に感銘を受けた天野は、将来できるものなら考古学者になりたいという夢を持っていた。中南米の古代文化に深い関心を持った天野は、パナマに居を構えながら仕事にかこつけては遠隔の地ペルーやコロンビアの古代アンデス文明の遺跡を訪ね、出土した遺物や副葬品に目を凝らした。こうした知的探求の蓄積が、のちにペルーで創設した天野博物館として開花することとなる。

第2次世界大戦と天野
 ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発すると、太平洋を挟む日米両国の関係がにわかに険悪化してきた。1941年12月7日(アメリカ時間)、日米開戦の報が届くと同時に、最も危険な人物としてマークされていた天野は囚われの身となり、アメリカで6ヶ月間の収容所生活を余儀なくされる。翌年8月に交換船で帰国した天野にとって、太平洋戦争中の祖国日本での生活は幽閉生活のような日々であった。偏った欧米中心主義が世界を牛耳っていることに強い敵愾心を持ち、コロンブスが新大陸を発見する以前に中南米では旧大陸以上に優れた文化があったことを全国各地の講演会で訴えるなか、1945年8月広島、長崎に原爆が相次いで投下され日本は敗れた。天野は米軍キャンプをまわるダンシング・チームのマネージャーまでやって必要なドル資金を蓄え、強行渡航を試みる。行先はもちろん南米であった。


再びペルーの地へ
 1951年2月14日、天野はスウェーデンの貨物船クリスター・サーレン号で横浜を密航同然に出港するが、猛吹雪で遭難。まっぷたつに割れた船体で13時間も漂流した後、米国船に救助され奇跡的に生還した。2ヶ月後には再起を期してカナダ経由でペルーに戻り、在留邦人に熱烈歓迎を受ける。敗戦で意気消沈していた日系社会は「不堯不屈の青年」の到着ににわかに活気づき、旧友たちは天野が提案した魚粉や漁網の会社設立に手を差し伸べた。天野は再び大きな成功をおさめることとなる。
 だが、晩年の天野は「ペルーに帰ってまず駆けつけたのが遺跡だった」と口癖のように話した。事業も大事だったが、砂漠の下に眠るプレインカの「語り部」がどうなっているかは、天野にとっては最も重要だったのだろう。

チャンカイ文化と天野
チャンカイの盗掘孔
チャンカイの盗掘孔を指差す天野
 この時期の天野は多忙を極めていた。事業の拡大や戦争で凍結されたままの資金の奪回、そしてリマの北方60キロにあるチャンカイ河谷の遺跡での考古学調査と、席の温まる間もなかった。
 チャンカイ河谷を不毛の砂漠から緑の耕地に変えたのは、日系移民の地のにじむような努力の結果であった。第1回移民(1899年)の岡田幾松による綿花栽培の成功を機に、養鶏や野菜栽培、柑橘類の一大生産地となった。天野の考古学調査を影で支えたのは、こうしたチャンカイの日系人だった。滞在のたびに現地の日系人から情報を得たり、野菜や果物の差し入れをうけることもしばしばであった。貴重な発見や採集があると、天野によるチャンカイ文化の考古学教室が夜遅くまで続けられた。
 もともとプレインカ遺跡のなかでも、チャンカイ文化はあまり注目されてはいない文化だった。ところがここを集中的に見ていくうちに、砂漠から出土する土器や織物が、きわめてレベルの高いものであることに天野は気づいた。「旧大陸の文化は王侯貴族のものであった。しかるにこちらの文化は庶民の文化のレベルが高い」と、我がことのように自慢したのだった。

泉靖一との出会い
泉靖一と天野
1969年8月 : 泉靖一と共に
 1956年2月、東京大学教養学部助教授だった泉靖一が、ブラジルでの日系移民の調査の帰途リマに立ち寄り、天野邸を訪ねた。すでにプレインカのコレクションで埋め尽くされた小さな博物館の様相を呈していた邸内で、泉は天野からチャンカイを始めとする古代文化の面白さを聴かされ、パチャカマなどいくつかの遺跡を案内された。
 この出会いがきっかけとなって泉は本気でペルーの古代文明と取り組むことを決意し、東京大学にアンデス考古学の講座が設けられることとなる。1958年1月には私設の天野博物館が発足し、5月には東京新宿の伊勢丹デパートで初の『インカ文明展』が開催された。
 第1回東京大学アンデス地帯学術調査団(石田英一郎団長)がペルー全域にわたる調査に出発したのも、この年の6月だった。3ヶ月にわたる調査の一部には天野も同行した。このときから40年、東京大学は17回にわたって調査団を派遣し、それまで不明だったアンデス文明の起源に迫る発見・発掘を今日まで続け、世界の考古学の発展に貢献している。

天野博物館の創設
 天野博物館がリマ市ミラフローレス区レティロ街160番地に竣工したのは1964年5月。開館は天野芳太郎66歳の8月だった。1967年5月14日、皇太子(現天皇)ご夫妻が来訪。パチャカマ遺跡や館内をご案内した。「皇太子ご夫妻のご臨幸は14日午後5時10分から6時までの50分でありました。光栄でありました。私はこの50分の為に生きてきたと思っております」(小池道夫氏への手紙)と、皇室を畏敬する明治人の心情を素直に述べている。
 博物館の来館者は千客万来で、研究者や作家、政治家、ビジネスマンと枚挙にいとまがない。1階のホールではアンデス学の公開講座も開かれた。こうした交流の場は、天野にとっては貴重な情報源ともなったし、勉強の場でもあった。
 1969年、71歳になった天野は、チャンカイで織物の「サンプル織」を発見した。「当時のおかみさんたちは、これを見て好みの織物を注文したに違いない。それほど豊かな文化がここにはあったのだ」と我が意を得たりと会う人ごとに披露するのだった。

晩年の天野芳太郎
ミラフローレスの浜辺にて
ミラフローレスの浜辺でペルーの子供らと共に
 この年の10月、天野は脳血栓で倒れた。幸い発病後2、3日で意識が戻り、治療とリハビリが繰り返された結果、10日目には歩けるまでに回復した。このとき天野は「だめな者はどうしてもだめだ。生きる力のある者はどうしても生きる」という信念を持ったという。
 天野は奇跡的な恢復を成し遂げたが、天野にとって盟友にもひとしい泉が1970年55歳の若さで急逝する。天野の落胆は大きかった。しかし、「泉教授亡きあとアンデス学を見守り、後進へ少しでも道を拓いておくことができるのは自分しかいない」という使命感を燃やし、教育者のような力を発揮してアンデス文明に関心を持つ同学の士を増やし続けていった。
 晩年に至るも博物館を訪れる人は絶えない。それは天野が模範としたアテネのシュリーマン邸とよく似ていた。しかし天野とシュリーマンには大きな違いがあった。シュリーマンは黄金を偏愛し、天野は庶民が産み出した素朴な土器や織物に文化レベルの高さを見出すことを喜びとしたのだった。
 1959年ペルー国政府から文化功労章、1980年には吉川英治賞、そして1982年10月1日、日本と中南米との文化交流に尽くした功績により国際交流基金賞を受賞。その年の10月14日、天野芳太郎は84歳で波瀾万丈の生涯を閉じた。

『天野芳太郎生誕100周年記念誌 南風光砂』 より抜粋