
インカ(紀元後1230-1532)/階段文様・平織り、インターロック技法
今回紹介する織物は、インカ時代に製作されたマント(肩掛け)である。女性用のマントは、リクリャと呼ばれたが、この織物が女性用だったのか男性用だったのかは定かではない。黄土色・えび茶色・黒色の階段文様を組み合わせたこの織物とまったく同質の織物は、複数の博物館で所蔵されており、それらは、縦と横の比がおよそ3:1になっているという点で共通している。シンプルな道具で製作された織物ではあるが、アンデスの人々が、織物の規格を意識していたことを示している。こうしたことは、スペイン人が残した文書の中でも確認することができる。16世紀半ばに、スペイン人がチチカカ湖岸のチュキートという場所で実施した査察記録の中では、90歳の老人が、査察官の質問に対して、衣服が規格に合い、インカ(王)に適しているものかどうかチェックするため、第12代インカ王のワイナ・カパックに仕えていたと答えている。
現代社会に生きる我々にとって、一般的に、衣服は単に身に纏われるものという観念しかない。ところがインカ時代において、織物は実に様々な意味合いを有していた。たとえば、戦争に際し、衣服を辱めることによって敵を殺傷できると信じられていた。スペイン人は、先住民が戦死者の遺骸から衣服を剥ぎ取っていくことを非難しているが、先住民側の論理では、完全にとどめを刺そうとしていたのである。つまりアンデス先住民にとって、織物は、魂そのものであったといえるのかもしれない。このほか、織物が贈答品として利用されたことも明らかである。成人式に際して、母親は子に魔よけとして織物を贈ったし、結婚に際して男性が女性に贈っていた。また、インカ国家が地方社会の人々に、威信品あるいは労働力提供の見返りとして贈っていたこともよく知られている。織物は、インカ国家そのものを支えていた物質であったということもできるだろう。
インカ国家の織物製作は、アルパカの毛をはじめとする材料が国家から分配され、地方社会に属する人々の手によってなされていた。製作には、男性も女性も携わっており、中には1000人を超える男性職人が、1箇所に移住させられ、織物製作に従事していた事例も知られている。一方女性は、アクリャと呼ばれる神々やインカに奉仕する者たちが、織物製作の役割も担っていた。アクリャたちが居住や労働に用いた場所は、「アクリャ・ワシ」と呼ばれ、多くの遺跡でその場所が同定されている。ワヌコ・パンパというペルー中央高地の遺跡のアクリャ・ワシからは、織物製作と関わる道具が100種類以上も出土している。
(東海大学助教授 大平秀一) |